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 相模原の歴史と文化

 

相模原に人々が住みついたのは3万年前ごろと推定されています。
境川沿いや姥川、鳩川沿いなどから旧石器時代の人々が使用した石器が出土しています。平成9年、田名向原遺跡では、約1万8千年前の後期旧石器時代のものとみられる住居状遺構が発見され、国史跡に指定されました。
縄文時代の遺物は中期(約4,000〜5,000年前)のものが多く、境川、姥川、鳩川、八瀬川、相模川沿いなど市内百数十箇所の地点から発見されています。特に磯部の勝坂遺跡で出土した土器の一部は勝坂式と名づけられ、顔面をかたどった把手や豪華な文様で全国に知られています。様々な歴史を経て明治以後も、相模野の開発は行われましたが、いずれも規模は小さく、台地上には雑木林なども多く残されました。
 明治22年の町村制施行により、清兵衛新田を含めた市域の18か村は合併して、相原・大野・大沢・田名・溝(後に上溝)・麻溝・新磯の7か村となりました。
 一方、産業の面では繭や生糸の生産がますます盛んとなり、明治3年12月に開設された上溝市場はその取引の中心となりました。
 明治41年横浜鉄道(現在の横浜線)、昭和2年小田原急行鉄道、同4年小田急江ノ島線、同6年相模鉄道(現在の相模線)が開通し、バス路線も各方面へ延長されました。
 昭和12年以降になると、陸軍士官学校、相模陸軍造兵廠、その他の軍関係諸施設が続々と市域に移され、たちまち軍都として時代の脚光を浴びるようになりました。また、軍の施設の移転に合わせ県施行の相模原都市建設区画整理事業もスタートし、現在の本庁付近を含めた整然とした街区割ができました。昭和16年4月、上溝・座間・相原・大野・大沢・田名・麻溝・新磯の2町6か村が合併し、面積108.71平方キロメートルを有する当時の日本最大規模を誇る町、相模原町が誕生しました。

2次世界大戦の敗戦により、軍都計画は消滅しましたが、軍の諸施設の多くは米軍に接収され、相模原は基地の町となりました。
 昭和25年の朝鮮戦争の勃発に伴い、昭和26年頃から経済も好転の兆しを見せ、相模原町内の米軍基地やその関連企業に多くの人が職場を求め、町の人口も次第に増え、昭和29年、全国で453番目、県下では10番目の市として、相模原市が誕生しました。昭和30年、地勢の特色を活かして内陸工業都市を目指した相模原市は、工場誘致条例を制定して、工場の積極的誘致を図りました。また、昭和33年8月、首都圏整備法による市街地開発区域第1号の指定を受けたことを契機として企業や住宅団地の進出が活発になりました。折から国の高度経済成長政策や、首都圏に位置していたこともあり、昭和30年代からはベッドタウンの様相も呈するようになりました。人口も昭和42年に20万人、昭和46年に30万人、昭和52年に40万人、そして昭和62年には50万人を突破するという全国でもまれにみる急増を続け、平成12年には人口60万人を超えるに至っています。更に平成18年3月には津久井町、相模湖町との合併により新「相模原市」が誕生、2007年3月には藤野町、城山町も加わり人口も70万人を突破する見込みで、ますますの発展が期待されます。